老害の実例 更新版

瞳の鬱(うつ)日記

 こんばんわ。瞳です。ちょっと今疲れているので、続きを書く前提で概要を書きます。

 わたしがいつも言っている教育行政及び教育改革における老害の実例を今回書きます。今回典型的な老害の例をみつけました。こういった、老人たちが日本を滅ぼします。多くの読者の方は、教職とは無関係な方々だと思います。実感が無いと思います。つまらないと思います。でも、その辺り、敢えて書いてみたいと思います。退屈ですが、一度は読んでください。こういった老人たちがいろいろな決定権や、発言力を持っているんですよ。ゾッとしてきます。後でジワジワ。

 例によってYAHOOニュースの見出しをさらりと流して見ていたんですが、今回は前回の良記事と真逆の聞き捨てならないものを見つけてしまいました。一般の方には大して興味も無く、長い文章なので読まないか、読み捨てされると思います。

 でも、この記事をみてから昨日一日中、腹が立ってしょうがないので書きます。

YAHOOニュース
(“教員が忙しすぎ”問題 「答えを見つける教育」への転換で教員数は半分にできる)6/15(水) 15:15配信

(https://news.yahoo.co.jp/articles/2bcf9fa270aa1d96b0e4f97822e42d03b2c33753)

という記事なんですが、多くの一般の方は(これがどうしたの?何かいいこと言ってそうじゃない。)とか思われるでしょうが、とんでもない。

記者が書いたものではなくて、(週刊ポスト2022年6月24日号)に寄稿されたものです。寄稿者のプロフィールは、以下の通り。記事からの引用です。

「大前研一(おおまえ・けんいち)/1943年生まれ。マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長、本社ディレクター等を経て、1994年退社。現在、ビジネス・ブレークスルー代表取締役会長、ビジネス・ブレークスルー大学学長などを務める。最新刊『大前研一 世界の潮流2022-23スペシャル』(プレジデント社刊)など著書多数。」という79歳の方です。よくあるパターンなんですが、大層な経歴の列挙ですが教育は素人です。経営コンサルタントだそうです。こういった方が、教育関係の各種諮問機関のメンバーに入られることが多いです。

 記事によると(経営コンサルタントの大前研一氏は、この問題を解決するには「21世紀の教育と教員の役割はどうあるべきか」を考える必要があるという。)として以下のようなことを述べられています。

 「教員免許更新制」廃止について

 記事より引用

「今回の制度廃止の背景には、慢性化・深刻化する「教員不足」があるというが、私に言わせれば本末転倒だ。」
「もともと、この制度は教員の指導力向上を目的として導入されたものである。それなのに、今回の廃止によってすべての教員免許は事実上「無期限有効」になるわけで、大学時代に教員免許を取得して以来スキルアップを怠っている教員や、教員経験がない“ペーパーティーチャー”でも講習なしに教壇に立てることになる。だが、運転の技能レベルが落ちたドライバーや、運転経験がないペーパードライバーが道路を走ったら、事故が増えるに決まっている。教育の本質を忘れた浅薄な制度「改悪」だ。

 と大前氏は言っておられますが、根本的に事実誤認をしておられます。間違っています。教育現場にいるものとして、教員免許更新を実際に経験したものとして、言わせてもらいますよ。

 まず第一に一言、「教員免許更新制」なんて無駄なんです。無意味なんです。やる意味ないんです。

 なぜなら、まず第一に教員の指導力向上には何の効果もないからです。スキルアップなんて望める講習内容ではありません。ただのカルチャー講座です。

 どうしてそうなるのかというと、これらの「教員免許更新制」の講習は、多くの場合。大学が講習を担当することになりますが、大学の教育学部や教員養成課程ですら、(児童生徒の脳の発達段階と、それに伴う理解力、思考力等を考察した上での)授業力・指導力を直接研究している例は無く、講習を受けたからといって全然現場で役に立つことはまずありません。

 過去記事に何度も書いていますが、この(児童生徒の脳の発達段階と、それに伴う理解力、思考力等を考察した上での)授業力・指導力自体の研究や、学生への講義をしている大学は驚くべきことに日本にはありません。これ事実です。わたし、学会に所属する本物の教育学者でもありますから、その辺りの大学の教育学部の現状・実情を知っています。(先日、変態教師のせいでやめたのは研究会です。)

 この状況は、医学部でいうなら、(病気の事は教えるが、治療法は教えていない。)のと同じ状況なのです。あり得ない、あってはならない現実なんですよ。

 医師免許に「医師免許更新制」は無い

 ひとの命をあずかる医師には、医師免許の更新制度は無いのです。みなさん。このことをご存じでしょうか。大事なことなのです。

 じつは、小泉政権時代に、当時の規制改革会議という諮問機関が「医師免許の更新制度」を内閣に答申しようとしたのですが、複数の議員の強い反発で潰れました。これは、医師には、政治に強い影響力を持つ強い圧力団体があるからでもあるのですが、「医師免許の更新制」など無くて大正解だと思います。それでなくても、医師の多忙さというのは、コロナ以前から相当なものでした。高い社会的地位と収入以上に彼らの重労働には大変なものがあります。

 医師は最新の論文のチェック、研究会などによる、自己研鑽等は欠かせません。そうしないと仕事にならないからです。日々進歩する医療技術に通じていないことには、ひとの命をあずかる医師はとてもつとまりません。

 つまり、実のある自己研修でないと、スキルアップは望めないということです。

 同じことが、教育をつかさどる教員にもいえます。実のある自己研鑽こそが、教師力(授業力・指導力)のスキルアップにつながるのです。学校内、または学区内で定期的に行われる研修や、研究授業は右に倣えの「シャンシャン」内容なのです。おそらく、全国内容は同じだと思います。とにかく、教育の世界というのは、右に倣えです。しかしまあ、これでも一利ありまして、たとえば、研究授業の後の研究会。なんですが、研究授業の授業者への感想は各教師「~先生、今日はありがとうございました。」というあいさつで始まり、当たり障りのない誉め言葉で終わらせ、決して批判的な意見は出ません。明日からも同じ職場の同僚というのもありますが、変な討論になってしまったら、時間が伸びてしまって、マルつけやらの雑務の時間が無くなります。

 まあ、これらの上からの研修などにはとてもスキルアップはのぞめません。

 それに、「教員不足」が廃止の原因ではありません。「教員免許更新制」というものがあまりにも無意味なうえに現場の負担が大きすぎるのが廃止の主な理由です。「教員不足」に関してはその他の要因が多く絡んできます。

 また、氏は「教員免許更新制」の廃止によって、ペーパーティーチャーが増える。ともおっしゃっていますが、ハッキリ言いますよ。今、現場にいる教師は、ある意味ペーパーティーチャーと同じです。実際、現実として授業力は塾講師に劣ります。過去記事でその辺りの事情を書いてます。学校の教師は授業以外の雑務が多すぎるのです。

 今の小中学校の現場で求めらるのは、授業力ではなくて、行事を中心とした事なかれ主義の学校運営です。そこに、授業力やその指導力は求められません。授業以外の事で手一杯なんです。結果、多くの落ちこぼしの児童生徒を生み出します。

 中学に上がっても九九を言えない。高校へ上がろうか、という時期なのに、一次方程式が解けない。なんて子はざらです。

 そして、決定的な事実としていえるのは、廃止が決まったこの「教員免許更新制」による更新をして、講習を受けた教師の授業力・指導力が実際上がって、それらの落ちこぼしの子たちが実際に減ったという事実(成果)があるのでしょうか。

 無いのですよ。落ちこぼしの児童生徒は全然減っていないのですよ。つまり、「教員免許更新制」は無意味で無駄だったのです。

 この老人。いや、この方、教育現場の実情や事実を分かっていない。全く分かっていないのにご意見なさる。これが老害。

疲れました。これ、許せないので続きます。後半、「学びあい授業」などの「子ども主体の学び」についても、とんでもないことを書かれているので、それを書きます。まったく驚愕します。また、その「答えをみつける教育」への転換で教員数を半分にできるなどとおっしゃってもいます。完全に認知症です。

19日追記分

 芸能記事を読む方は、ここまで読むことは無いと思います。だから、どんどんいきます。長文ですが、頑張って下さい。

「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)などの新たな取り組み

 この「主体的・対話的で深い学び」とは、Wikiによると(技術や社会環境が急激に変化し、教育機関で学んだ内容がすぐに陳腐化してしまうという知識基盤社会・生涯学習社会の到来である.将来にわたって必要なスキルを身につけることができる学習法として注目され、国内外の様々な教育機関の授業においてアクティブ・ラーニングが実施されている。その多くは発見学習、問題解決学習(課題解決型学習)、体験学習、調査学習、グループディスカッション、ディベート、グループワーク等を有効に取り入れており、このような授業はアクティブラーニング型授業とよばれている[2]。グループワークのうち、タスクフォースやチューターを加えずに学習者同士での自習を指した、SDL(self-directed learning)という用語も用いられる。)

 というものなのですが、氏の著書著『経済参謀』(小学館)に(21世紀は「答えがない時代」であり、知識の詰め込みや暗記がメインの勉強は、ますます意味をなさなくなっている。これからの教育は、「知ること」よりも「考えること」が重要で、生徒の「考える力」を育むことにこそ時間を使うべきなのだ。

 しかも、いまや学習のほとんどはパソコンやタブレット端末、スマホに置き換えることができるから、それらをフル活用すれば授業の効率は飛躍的に高まり、在宅学習も可能になる。その代わり、現在の日本の教育に欠けている論理学やリーダーシップ、EQ(心の知能指数)などの科目を新たに加えなければならない。

 ただし、それで教員の負荷が増えることはない。「答えを覚える」教育から「答えを見つけていく」「答えを考え出していく」教育に転換し、学習のDX(デジタルトランスフォーメーション)を進めると、むしろ教員の役割は小さくなっていく。基本的に教員は、学習指導要領に基づいて答えを教える「先生」ではなく、クラスのみんなで答えを見つけていく時の「ファシリテーター(促進者)」や、児童・生徒のカウンセラーにならねばならないのだ。

 結局、日本は金太郎飴のように均質な人材が必要だった20世紀の工業化社会の教育のまま、新しい教科を追加した膨大な学習指導要領に基づいて知識を丸暗記させようとするから、教員が足りなくなるのである。「答えを見つけていく」21世紀の教育にシフトするとともに、学習のDXを進めれば、教員の人数は現在の半分以下で済むだろう。

 しかし、いま文科省がやっていることは、それとは正反対だ。リカレント教育で新しい知識を学習しなければならないのは、文科省の役人と中央教育審議会(文科相の諮問機関)のお歴々なのである。このまま軌道修正できなければ、21世紀に20世紀型の人間を大量生産する日本はお先真っ暗だ。」)(記事より引用)

 一見いいこと書いているようですが、現実を知らない人だと言わざるを得ません。これまったくの素人の夢ものがたりです。それどころか、初等中等教育段階では、決してやってはいけないことでもあります。

 「主体的・対話的で深い学び」とは

 このアクティブラーニングは、文科省などでは、この「主体的・対話的で深い学び」が正式な語になりました。

 この「主体的・対話的で深い学び」自体はいいことです。否定しません。ただし例えば「国語」、「社会」、「理科」でこれをやることは、非常に有意義であるとわたしも思いますし、実際の授業でもやってきました。

 例えばわたしが担当した「理科」では、かならず実験などにおいては予測を立てさせます。そして、その理由を考えさせます。これを図にしてノートに詳細に書かせます。その上で実際の実験に入ります。場合によっては、予想、予測とその理由を発表させて、生徒同士で意見交換もさせます。

 その上で実験を行います。実験の意外な結果に、学びは深いものになります。塾で答えを知っている生徒の発表をうまくコントロールする授業の腕が必要になります。

 つぎに「国語」の例を挙げます。かつて山の辺小学校(奈良県天理市)でTOSSの向山先生をお迎えしての公開授業がありました。わたしも参観いたしました。大変参考になりました。TOSSのK先生が授業をされました。「ごんぎつね」の授業です。

 K先生は授業の最初に発問をしました。TOSSの授業は無駄がありません。すぐに始まります。(これも児童の脳科学によるもの)

 発問。「ごんぎつねは、いいきつねですか。悪いきつねですか。」これだけです。

 これで、45分の授業は白熱しました。全児童が参加する討論となりました。これは、高段者の授業テクニックで、わたしには無理です。一般の先生方でも無理です。

 これぞ、「主体的・対話的で深い学び」そのものです。

「社会」科は経験がないのですが、「主体的・対話的で深い学び」の恰好の機会が得られと思います。

 算数・数学ではこれをやってはいけない

 しかし算数・数学でこの「主体的・対話的で深い学び」をやってはいけません。結論を先に言うと、塾で知っている子が模範解答を知っていて授業をリードし、知能の高い少数の子がなかなかいい意見、発見をいう。ところまではよしとしても、まったく授業についていけない子が半数以上出てくるはずです。

 数学的な発見ができるのは、天才だけです。ニュートンやアインシュタインだけです。一時間の授業でそれを実現することは不可能です。小学校の算数とて、古代ギリシヤの哲学者、数学者の発見の賜物なのですから。

 大体このいわゆる「問題解決型学習」(「主体的・対話的で深い学び」に含まれる)を算数ですると、教師が誘導していかなくては成立しませんし、基本事項の確認だけでも時間切れになります。結果、塾に行っている子がリードしてくれないと成立しません。

 さらに、一時間の授業を使ってたった一題の問題を四苦八苦して解いて、残りは宿題なんてことをすると、こどもの理解は定着しませんし、「子ども同士で教えあうというとんでもないこと」(学び合い)をしますから、間違ったこと、間違った意見が印象に残ってしまって肝心の基本事項が記憶に残らないということも起こってきます。

 小学校の算数は「エラーレスラーニング」が絶対原則です。やはり基本事項の暗記は必要で重要です。

 発問ー指示ー作業(問題演習)ー確認(答え合わせ)の基本パターンをわずかに変化させながら繰り返します。説明しすぎると、子どもの理解をかえって妨げます。(脳科学的根拠)変化ある繰り返しで理解が深まっていきます。教員の方で興味のある方は、向山先生の著書をお読みください。

 わたしも、この授業法で、クラスのテスト平均90点以上を実現していました。自慢しているわけではありません。ひとつの目安です。たとえば30数名いるクラスで10点、15点、が二人いると平均は90点を割り込みます。大体そうなります。

最後にDX(デジタルトランスフォーメーション)で、教員の数を半数にできるのか

 結論いいますよ。あんた馬鹿?

 できません。フリースクールでタブレットを使った例がありますが、教師は過労で潰れました。

 教師は人間です。サーバーコンピュータではありません。いくらオンラインで授業ができるといっても、深い学びを得るには基本一対一です。一対数百人の大学のオンライン講義はことごとく失敗しています。一人の子に教えている間、他の子は待っていなくてはなりません。

 結果、その教師は食事もトイレに行く暇もなく、過労でダウンです。

 デジタルは万能ではありません。

 長くなり過ぎました。書きたいこと、このジジイに言ってやりたいこと、まだ山ほどあります。でも、もう多分普通の単行本一冊くらいになってしまいました。

 ここまで、読んでくださった方、ありがとうございます。瞳の愚痴でした。

 

 

 

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