瞳は天使か魔物か

瞳の鬱(うつ)日記

 昨日は、梅田のカワチに画材を買いに行きました。ついでに、岡本太郎先生の太陽の顔を買おうと決心もしていました。

 太陽の顔なんですが、地下エリアの現在、万博当時の現物が行方不明というのものなんですが、強いインスピレーションを感じます。まるで、前世で観たことがあるような感覚。太陽の塔の「第4の顔」といわれています。

 岡本太郎先生って、ダリと並ぶ本当の天才だわ。

 現在、リニューアルされた地下エリアに再現されています。

 

 ずうっと欲しかったのですが、遂に買おうと今回決心しました。

 画材はB2大のボード

 これ、今制作中の絵にどうしても必要なものなんですが、あいにく、前回までの作品で使い切ってしまいまして、家に在庫がありません。

 パネルではなくて、軽量のイラスト用などのボードです。B2という規格の大きさは(515mm × 728mm)で、けっこうかさばります。久々に間近で観ると、B2はさすがに大きいです。よく、学校の図工などで用いる四つ切り画用紙の二回りばかりの大きさです。

 軽いので、持って帰れるのですが、これと、太陽の顔と一緒に持って帰るのはとても無理。

 なので、今回は太陽の顔は断念しました。

 

 やっぱり持って帰るのは骨が折れた

 まあ、これは、アマゾンとかで宅配してもらった方がいいのですが、宅配はどうしても気を使うというか、いつ来るか分からないというのがありまして、特に、時間指定とか宅配ボックス置きに指定したにもかかわらず、全然伝わっていないんですね。佐川の時は。こちらとしては ヤマトにして欲しいわけです。

 これ、相当なストレスなんですよ。昨日は、食事の最中に突然やってきて、「何なのこれ!」本当にムカつく。慌てて、外着に着替えて、髪直して、はんこ出して、えーっとそれとなんだっけ、とかほんとうに大変。ちょっとしたパニックになります。

 うちは、玄関と門がけっこう遠い。Googleマップでみるよりはるかに大変なんですよ。特に、わたし、体が不自由。片手で、階段おりて、はんこ押して、片手で杖突ながら階段登って、本当に大仕事。

 荷物は、太陽の塔の一番大きなもの。箱がでかい。重い。値段も高い。落とすと大変。

 

 その後の食事は台無し。ショックでもう味も分からない。心臓バクバク。砂糖たっぷりのコーヒー飲んで、YouTubeの岩見沢駅のライブ画像見ながら落ち着こうとするのだけれど、しばらくは駄目。何もできない。荷物解きなんて明日でないと無理。たっぷり1時間は使い物にならない。

 といっても、宅配のおじさんが悪いのでは無くて、いつぞや、佐川に文句を言ったら、「置き配達は出来ないんです。方針なんです。」とかおっしゃる。現場の負担、とか受け取る側の負担とか考えろよな!

 

 で、今回のボードは宅配は無し。自分で買いにいきました。

 でもやっぱり、大仕事だった。中国人には体当たりされるし、女性専用車両でも足踏まれるし、通勤時になってしまった。

 なにせ、左手はボード。右手は杖。パス出すのが一苦労。

 わたしの隣には、おしゃれ系姉ちゃんがなぜか座る。

 んですよ。女性専用車両で。言っちゃ悪いが、ホスト狂い系ほどではないにしろ、かなり濃いめの化粧、派手系がくる。ドカンと座る。JR大和路線の八尾駅とか(この子、わたしのかつての教え子とかでは無いよね。とか、思ったりするんだけれど、まさかね。)

 最初は偶然かな。と思っていたけど、どうやら、わたし、彼女らの気に障る系らしい。

 わたし、決してケバくはなくて、主治医によれば、「あなたが痴漢のターゲットにされるのは、そいういう雰囲気なのよ。いかにも大人しい感じ。」ということらしいです。

 まあ、マスクしてると、黒髪のしとやか系に見えるらしい。でも実際は、昨日も前を歩くながらスマホみたいなおっさんに、「おっさん、もっとはよ(速く)歩け、邪魔!」とか言いますし、通路で立ち止まってスマホしてる女に、「You’re in the way!(邪魔!)(でも、日本人だった。)」とか平気で言います。昨日だけでも2回言ったか、3回だったか。わたし、実際はこんなもん。これでも教師。みんな生徒扱い。関西女そのまま。

 で、何が言いたいのかというと、昨日、ボード持って女性専用車両の優先座席に座っていると、おしゃれかばんのデカいのを持った、おしゃれコートの女がドカンと隣に座りまして、ボードを直撃。

 思わず、顔を見るのだけれど、無視。意識的に無視。「何よ。文句あんの。」という意味。

 まあ、ボードは損傷してなさそうだけれど。

 ・・・とにかく、持って帰るのは一苦労でした。

 問題は、どうやってバイクで運ぶか

 JR大和路線の低民度駅、八尾と柏原を過ぎると客が減りまして、落ち着きました。馬鹿女も柏原で降りてくれました。

 で、どうやってバイクで運ぼうかという問題に、やっと取り組むことができました。頭の中で。

 これは、実は最初から、出発前から分かっていた問題。まあ、なんとかなるだろうとかで、見切り出発したのですが、いざB2のデカさを目の当りにすると、これはちょっとバイクでは無理だ。となりました。

 が、買って帰らなきゃ、時間が無駄になる。

 

 昔の事故

 実は、学生時代、B2パネルをバイクで駅まで運んだとき、フロントロックで事故になりました。ウェットコンディションでした。転倒まではいかなかったんですが、運良く、道の門石の大きな置き石に衝突して止まりました。フロントホイールは完全に変形アウト。

 片手運転になってしまって、フロントロックです。運悪く雨。

 なんで、そんなことをしなくてはならなかったのかというと、当時、大学生時代の話なんです。

 デザインの講義がありまして、その教授が変人で、数分の遅刻も許さない。かつ、作品はいちいちB2パネル(木製の重いもの)でなくてはならなかったのです。

 なにせ、単位がかかってますから、自分の信念曲げてでも曲乗り運転。結果は悲惨。まあ、道に置いてあった門石に助けられました。

 「自分の信念・ルールは必ず守れ。」ゲーム「エースコンバット」の敵方エース隊長の教えは全く真理です。

 しょうがない。天使になろう。

 とにかく、話戻りますが、軽いとは言え、B2ボードを脇に抱えて走るなんてもってのほか。

 幸い、セリアが開いている時間。ガムテープと荷造りひも買いまして、はさみ借りてボードをリュックのように、背負えるようにしました。

しっかり背負う格好・天使の羽

 これで、まあ、操縦には支障は無い。ただし、40km/h以上は無理。30km/hくらいで飛びそうになる感じ。後ろに引っ張られます。

 天使か悪魔か、魔女か。わたしは魔女だよ。

 ああ、大仕事だった。クタクタ。

 デザイン教育の問題点。

 さて、ようやく、本題なんですが、そもそも、日本のデザイン教育というのは、というより、多くのデザインの指導者は根性主義のポンコツばっかりです。(大丸百貨店のマークの秘密話を教えて下さった先生は、まともなりっぱな先生でした。人格者。大阪四天王寺近くの「十三参り」のポスターのデザインをなさった方で、もう故人です。)

 デザインというものは、もともと、バウハウスという先進的なデザイン学校が1919年、ヴァイマル共和政期ドイツのヴァイマルに設立され、発展しました。創立当初は、ヨハネス・イッテンという先進的な指導者のもと、自由な発想と実用性を融合させた画期的なデザイン教育を実践していました。これは、今日のあらゆるデザイン分野の原点とも言えます。

 しかし、『水谷 武彦(みずたに たけひこ、1898年8月15日 – 1969年)は 日本の美術教育者、建築教育者。日本で最初にバウハウスへ留学した人物。帰国後、様々な活動を通じて日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した。』ウィキペディアより

 まではよかったのですが、何故か日本に入ってくると、当時の軍国主義の影響もあるのでしょうが、実用本位でかつまた、武道の稽古のごとくひたすら根性主義の技術教育になってしまいまして、今日に至ります。

 しかし、ワープロが登場し、パソコン・ITの分からない老骨指導者は大いに戸惑うこととなりました。なにせ、最初のリボンワープロこそ、文字はまだまだギザギザで使い物にはならなかったのですが、技術革新が進み、いまでは、一般家庭で滑らかな印刷文字がプリントできます。これ、実は、とても革命的な事だったんですよ。決しておおげさではなくて、全く夢のようなこと。

 なにせ、フロッピーディスクの時代では、版下という印刷の原稿は、文字・文章を『写植(しゃしょく)』屋さんに依頼して、そこの職人さんにいちいち文字や文章ごとに印画紙に印字してもらって、原稿に切ったり貼ったり手作りだったんです。

 今でも、漫画の原画では、この手法をする先生もおられるようですが、まあ、あの手書きの漫画原稿・Gペンと黒ポスターカラーのべた塗り、などで全てやっていたんです。

 ポスターなどの大きなタイトル文字も、驚くべき事に、原稿ではポスターカラーでの手描きが多かったんです。まったくの職人芸です。手描きだなんて分かりません。

 各種グラフィックデザインの専門学校では、このレタリングなどを徹底的に練習させられ、少しでも線が歪んだり曲線部分が乱れてはみ出てたりしたら全部やり直し。しごきまくられます。

 当然、実際の職場はブラックどころじゃありません。人間扱いではありません。終電まで帰れません。締め切り絶対。雑誌などの編集に穴を空けるなんてことしたら、下請負のデザインスタジオは即お払い箱です。そんな時代があったんですよ。

 だから、デザインの教官というのは、頭が古くて、大きなB2やB1パネルを敢えて持たせて登校させたりしました。根性主義の技術教育です。

 そんな時代もあったという話でした。

 

 

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