教師の仕事って
こんばんわ。瞳です。8月に入ってしまいました。いよいよ、切羽詰まるわけです。
で、贅沢言わずに、小学校、中学校も覚悟しなくてはならなくなりました。
思えばですね。最初にわたしが勤務したのは小学校で、そのときは、TOSSという教師の勉強サークルに熱心に参加しておりまして、帰りは9時過ぎとかになるのがざら。
これ、学校の職務や学内研修などとは別のもので、向山洋一先生という方が率いる教育研究グループです。まったくの自主研修で、いわゆるブラック残業とは別のものです。
熱意溢れていたわけです。
若かったのね。今から思うと。よくやってたわ。自分でも。
で、従来の旧態依然とした学校運営とか、最悪の授業をする古参の教諭としょっちゅう衝突していました。
子どもは「俺アホやねん。」とは言えない。
もちろん、アホな子などいません。多くは、教師の教え方があまりにお粗末未熟ゆえの悲劇です。何度もこのブログで言っているように、現在の教育学部、教員養成課程には、子どもの発達段階に応じた「授業技術」の養成のための講座が無いのです。
新卒や教員採用で入ってくる新人教師は、全くの授業の素人です。
新人には新任養成のための教諭がつきます(初任者研修)が、これまた、授業が下手。教えることは、学校の様々な行事や雑務の段取りが主なものです。
子どもが災難。
つまり、授業が分からない子が当然出てくる。授業についていけない。
小学生の子ども相手に、大学の講義のような授業をする。説明ばかり。
いわゆる「しんどい子は、説明するほど分からなくなる。」ワーキングメモリーがパンクするのです。
教育のプロたる教師が、そんなことも知らないで授業をしているのだから、当然落ちこぼしが出てくる。
そういった、現状がある上に、さらに悪いことには、文科省主導のもと、「学び合い学習」というとんでもない、教育法が主流になってきました。
さらにこの流れはアクティブ・ラーニング(主体的な学び)として指導要領に明記されるようになりました。
ここまで、現在の日本の教育の問題点をざっと述べました。このブログで何度も書いていることです。
こういったことは、中学に上がって高校入試という現実が目前に実体化してくると、途端に破綻します。
勉強の点数が、将来を決める、決めてしまうというのは、今でも現実です。大学入試の出題傾向が変わろうが同じ事です。
わたしは奢っていたのだろうか
小学校勤務時代。わたしは赴任校が決まると、奈良の率川神社様に子ども達の無事を願ってお参りするのが習慣でした。
そして、任期が終了すると無事を感謝するお礼参りも欠かしませんでした。
率川神社様が教育と特に関係があるわけでも無いのですが、今ではきっかけが思い出せないのですが、なぜか率川神社様でした。
当然、春日大社様にも行っていたように記憶しています。
でも、ふと、ここ数年、中学勤務に移ってから以降は、いつの間にかこの習慣を止めていることに気づいたんです。
なぜだろう。
で、最近というか、数年前からふと気づいたことがあります。
授業技術に頼り、子ども・生徒達の学力をできる限り向上させる。そして実際に、幾人かは概ね向上させることができてよかった。
というのは、教師の奢り、傲慢ではなかったのか。
わたしは、授業技術に奢り、勉強以外の苦しみ、重みを抱えた子にちゃんと寄り添うことができていたのだろうか。
この点は甚だ疑問だと言わざるを得ない。
運動会や卒業式を立派に、保護者、地元の有力者、他校を前にしてやり遂げ、自己満足している教師と何ら変わらない。
と最近思います。