不定期連載小説4
夫の面影
「君のご亭主。寛さんは本当にやさしいいい人だったんだ。」
兄貴は、言った。
そう、わたしの夫、寛さんは、やさしい人だった。瞳は富山時代の二人のささやかで、あまりにも短かった結婚生活を思い出していた。
二人とも若かった。
夫、寛は海軍に所属する航空部隊の戦闘機の搭乗員であった。まだ開戦前の時期に二人は駆け落ちした。当時の海軍航空基地は主に関東地方や青森などにあり、富山県は夫の勤務地からはあまりにも遠すぎた。夫はそれらの基地を転々と移動させられていた。戦争の気配が近づいていたのだ。
それゆえ夫の実家のある富山に逃避行したまではよかったが、その夫と一緒にいられる時間は少なすぎた。あまりにも少なすぎた。
やがて、本格的な戦争がはじまり、夫は大陸の基地へ配属されることになった。
夫とは、月に一度、本土へ帰った時に会えるかどうかであった。
そのせいもあるのだろう。結局瞳夫婦は子供を授かることはなかった。
戦況が激化し、夫が南方へ配属されるようになると、もう、手紙だけが唯一の夫婦の繋がりとなってしまった。
そして、まもなく・・・瞳は夫の戦死の知らせを受けることになった。
今では、どうやって夫と出会ったのか、そして、いつ二人は恋愛関係になっていたのかもよく思い出せない。
夫の面影は、あまりにも漠とした、おぼろげなものになってしまっていた。笑い顔が好きだった。優しかった。わたしのことを一番に大事にしてくれていた。それは確かだ。つかの間の二人の生活の一部始終はしっかり覚えている。
しかし、
瞳はふと思う。そういえば、夫はわたしにとって、一体どういう存在の人だったんだろう。すべてはつかの間の二人の生活がすべてだった。一時、勢いに任せて恋に落ち、少しの間一緒の時間を過ごしたにすぎない、・・・それだけだったのかもしれない。
兄貴という叔父
瞳はふと我に返る。
「兄貴。何でこんな時間にうろうろしてるの。まだ昼過ぎの仕事中だろう。」
「ああ、これも仕事なんだよ。今のこと。」
「今のこと?」
「そう、用件は、つまり仕事の内容は、つまり瞳の事だ。」
「私の?」
「僕は役場の生活保護担当だ。一度相談を受けた相手のその後も確認、援助する必要がある。つまり、今、それをしているわけだ。」
「・・・それって、わたしの身元をあらうってこと。」
「違うよ。勘違いするなって。そんなんじゃない。つまり、役場としては遺族補償はできないが、それでそのまま放ったらかし、てわけにもいかないだろう。何とか身が立つように力添えするのが僕の本来の仕事だ。」
「あら、兄貴、真面目なんだ。そんな役所の役人なんて、今まで会ったことも無い。」
「まあそうだろうね。いつの時代でも、世の中世知辛い(せちがらい)からな。」
「つまり、兄貴が来たのは、わたしだから、・・・瞳だと分かったから。ってこと?」
「いや、そんなことは俺はしない。この後ももう一軒回るつもりだ。別の人の件だ。」
「兄貴らしいね。昔から。そうだった。生真面目(きまじめ)だね。」
「俺が生真面目なんてこはないさ。ただ、自分の気の済むようにしているだけだよ。」
「ところで、瞳、まあ、仕事ということだから、ある程度の報告は書面に残すことになる。今確認できたこと。」
「それって・・・店に、いや、親に本当の事、わたしが娘の瞳だということ教えるってこと?」
「そんなことはしないさ。安心しなよ。ただ、相談のあった○○瞳さんが、今はこの店でちゃんと職を得ることができた。ということだけさ。内縁でもちゃんと旦那さんの苗字で書くよ。それに、書面に書いても上司は読みやしないさ。それが役所ってもんだよ。」
お茶も出せないままだった。まあ、手は粘土練りで泥んこだからお茶なんて入れることはできなかったのだが。
兄貴は、話が終わると、さっさと店から出て行った。次の相談者。多分、生活が苦しい誰かのもとへ。
瞳は、その後ろ姿を見ながらふと思う。
兄貴って・・・不思議なやつだ。そういえば、今まで気づかなかったけれど。
性格が変わってるのはむかしから重々承知している。もう変わり者だというのが兄貴という存在そのものだった。
でも、何ていうか。そうか、外見だ。背が高い。多分六尺近くはあるかな。鼻すじが通っていていわゆるハンサムだ。母の弟なのだけれど、あんまり似ている感じでもない。
おそらく、職場の役場では、ひそかに想いを寄せている女性も少なからずいることだろう。
まあ、兄貴は気にも留めていないだろうが。
どろんこ遊び
粘土練りに戻った途端に、声がした。
「おねえさん。俺もやらせてよ。」
びっくりして、店の中を見回す。そしたら、例の窓からあの男の子がこちらを観ていた。
この子、ちゃんと話せるのか。瞳は驚く。
「え!ああ、入っておいでよ。」
男の子は嬉しそうな顔そして、身軽に窓から姿を消したかと思うと、すぐに今度はちゃんと表から入ってきた。
兄貴が言っていたように、他のお客がいないのを確認済みなのだろう。躊躇は無い。
よく見ると、トメさんが言ったように『りんどう屋』さんからもらった着物がよく似合っている。
紺色の着物に黒の帯を締めている。そして、『山本商店』さんからもらったという真新しい草履。
この恰好なら、孤児だとは誰も思うまい。
「あ!そうだな、着物が汚れるからね。割烹着(かっぽう着)着てからね。やろうか。」
瞳はとりあえず台所にかけたる割烹着を一着頭からかぶせてやる。子供には大きすぎるから襷で腰と袖口やらをしっかりとしめてやる。
「おねえさん。これ何?」
「ねんど、っていうのよ。どろんこみたいでしょ。」
瞳は粘土だとおしえてやる。これでいろいろなものを造るのだとか余計なことは言わない。
「おねえさん。どろんこ遊びしてたの?」
「そうだよ。一緒にあそぼう。」
練っていて分かったが、この粘土は焼き物にはだめだ。使い物にならない。
もう一度、乾燥させてから、粉に砕いてから「ふるいにかけて」異物を取り除くところから作り直さなければならない。
でも、こどものどろんこ、粘土遊びにはちょうどいい。
つづく。