わたしはトムキャット
鏡瞳(かがみ ひとみ)二等空尉は、民間航空エリアにあるその古ぼけた喫茶店の前で深呼吸をした。
「ああ、懐かしい香り。」
瞳は今、大阪河内(かわち)平野にある小さな空港敷地内にいた。ここは、陸上自衛隊の駐屯地と民間航空との共用の空港になっている。瞳はかつて、特殊任務でこの駐屯地に半年間所属していたことがある。2年ほど前のことだ。
(こんなところに、こんなお店があるなんて、何か変な感じがする。でも、ここのコーヒーは美味しい。)
もう午後なので、お客も少ないはずだ。おそるおそる店のドアを開けて中に入る。
一気に、コーヒーの香りのみならず、チャーハンやらカレー、スパゲティナポリタンの匂いに包まれる。
店のマスターは厨房にいるらしい。
かつてのいつもの席は空いていた。お客も少ない。駐屯地の連中も、ときどき基地の食堂ではなくて、ここで食事をしていた。それなりの懐かしい味が、またいいのだろう。
まあでも、今は昼休み時間じゃないので、隊員の姿は見当たらない。
早速、瞳はそのいつものお気に入りの席に向かった。
そのとき、マスターが出てきて、瞳をみつけた。
「やあ!瞳ちゃん。ずいぶん久しぶりだな。」と驚いた様子で言った。
(わたしのこと、覚えていてくれた。しょっちゅう来てたというわけでも無いのに。任務の都合上、空港にはあまり立ち入れなかった。この店に来るのも、ほんの週一くらいだった。)
この店のマスターは、年の頃はもう60過ぎという感じ。よくある喫茶店の店主そのまま。
「ああ、お久しぶりです。マスター、わたしのこと、覚えて下さってたんですね。」
「そりゃまあ、いつも一人でいて、変わった印象の女性だったからね。まあ、いつも私服できていても、軍、いや自衛隊員だというのは分かってたんだが。」
「さすがだな。マスターにはかなわない。隣の中学校の教師だって言ってたのに。」
店には、たくさんの飛行機模型が並んでいる。ちょっとした航空博物館だ。店内は古びているがいい雰囲気だと思う。この店のマスターは、なんでもむかしは航空自衛隊員だったということらしい。
しかも、イーグルドライバーだったという。
「それにしても、その怪我はどうした?腕の怪我に杖までついて一体どうしたんだ。」
「いや、これちょっと、この前の任務のときの後遺症っていうのかな。機密事項。腕の怪我はこの前、歩いているとき転んじゃったの。」
「そりゃあ、大変だろう。しかし、なんだな。痩せたな。だいぶやつれた顔してるけど、大丈夫か。」
「ええ、ありがとうございます。大丈夫だと思います。まだ、トムキャットには乗れますよ。」
「何強がり言ってるの。まあ、コーヒーでも飲みなさい。」
「そうそう、それが楽しみだったの。マスターのスペシャルブレンド。最高。」
「ほー、それは光栄。」とはにかみながらマスターが答える。
いや、実際、ここのコーヒーは美味しい。スタバとかではとても味わえない味だ。
「マスター、ついでにプリンアラモードもお願い。」
「ああ、瞳ちゃん好きだったね。というより、お供のねこちゃんの方だったかな。」
「そうなの。みぃちゃん。」
「今日も一緒なのかい。どこにいるの。」
「今、外で遊んでる。今日はね、花子も一緒なの。二人ともはしゃいじゃって大変。」
「花子ちゃん?」
「そういえば、マスターは花子に会ったこと無いね。死んだ兄貴のねこ。真っ白で美人の子。でも、ものすごいオテンバなのよ。」
「オテンバさんか。瞳ちゃんと同じだ。」
トップガン・マーヴェリック
「ねえ、マスター。」
「何、どうした。?」
「例の映画観た?」
「ああ、トップガンのことだな。もちろん観たさ。」
「どうだった。マスターの感想。」
「いい映画だった。」
「それだけ?わたしなんか、7回も観たよ。」
「はは。なるほど瞳ちゃんらしい。でも、わたしの勝ちだな。」
「どういうこと。?」
「わたしは、15回観たよ。」
「えー!」
瞳はおもわず絶句した。
(なるほど、あの映画は本当に、一言、「よかった。」)
最初に劇場で観たときは、オープニングから自分でも思わず、号泣。上映時間中、最後まで涙が止まらなかった。
こういったことは初めての経験だった。化粧してなくてよかった。涙で大変な顔。他の観客たちの目を気にしながらうつむいて劇場を後にしたのを覚えている。
「ねえ、マスター。ラストのあのトムキャットとsu57とのドッグファイトどう思う。」
「あり得るか、といえば、どうかな。確かに可能ではある。」
「第4世代と第5世代の戦いなんて勝負になるのかしら。」
「瞳もトムキャットに乗ってるんだから、分かるだろ。」
「わたしのは、F14Dで、デジタル制御が入ってるよ。あの映画では、F14Aの全くの初期型の設定でしょ。」
「そういうことになるな。」
あの映画では、某国はイランがモデルになっている。皮肉にも、今でもイランで米国製のトムキャットが現役で飛んでるというのも変なもんだ。
イランのトムキャットは、全くの初期型のF14A。厚木基地のF14Aとは違い、デジタルアシスト制御は無い。だから常に、エンジンの問題(コンプレッサーストール)の危険と隣り合わせだ。その辺りは一作目のマーヴェリック達のF14Aと同じ。
イランにトムキャットが配備されたいきさつは、当時の親米独裁政権の王政下で、機体の引き渡しが行われてしまったのだ。その後すぐに、革命が起こって、親米の国王は亡命。トムキャットだけが残った。
「マスター。あの初期型で、あの機動。右エンジンだけアフターバーナーでの捻り込みなんてやって大丈夫だと思う?」
「まあ、かなりやばい機動だね。マーヴェリックだからできたんだということだろう。」
「一歩間違えたら、第一作目のフラットスピンだもんね。それで、相棒のグースを失ってしまったんだから。」
「でもな。瞳。マーヴェリックが言ってたろ。最後はパイロットなんだ。」
「そうかもね。いくら相手が第5世代戦闘機といっても、あんな接近戦じゃ、トムキャットの可変翼はかなり有利だものね。」
「そう、その点は実際かなりなもんだ。しかし、あのシーン、どうやって撮影したのかね。実際に飛んでるのは、FA18E/Fなんだろうけど。今の映画の技術にはわしらはついていけんわ。」
「ほんとだね。マスター。わたしはね、あの脱出してから、仲間と間違えてSU57が接近してきて編隊飛行になったところ。あまりに美しいので、何度観ても魅せられる。」
「ああ、変にいいシーンだった。トムキャットの美しさが際立つ感じかな。」
瞳は、冷めかけてしまったコーヒーを美味しそうにごくりと一口飲んだ。
瞳は思わずマスターとのこのトップガン・マーヴェリックのネタ話で時間の経つのを忘れてしまっていた。
つづく